Paweł Pawlikowski Cold War
近くの映画館でポーランド出身の映画監督パヴェウ・パヴリコフスキの映画Cold War を観る。1949年から1960年代。
第2次大戦後ポーランド、革命政権が民族音楽・舞踊を支配の道具として手中に収めていく時代。
逃れた先には音楽がグローバルな商品として取引される世界がある。
双方の空疎。
あるいは決してそこに身を置きたくはない現実の世界。
*******
1944年 チェチェン人のシベリア・カザフスタンへの強制移住
1957年 帰還
1918年 ポーランド独立回復
第2次大戦中、独ソによる分割
1952年 国家主権復活 ソ連支配下にはいる
アンジェイ・ワイダ 1926-2016
「世代」(1954年)
「地下水道」(1956年)
「灰とダイヤモンド」(1958年)
「大理石の男」(1977年)
「鉄の男」(1981年)
パヴェウ・パヴリコフスキ 1957-
1971- 母親と西側に移る。
ストーリー
始まりはポーランド 1949年 民族音楽の収集 音楽・舞踊団の編成 親ソビエト・官僚機構に組み込まれていくものとそこから身をはがそうとするもの。高度に商品経済化されていく西側戦勝国。1950年代を中心に1960年代前半まで。
1951年 ワルシャワ、音楽舞踊団公演。
1952年 東ベルリン、音楽舞踊団公演、音楽監督ヴィクトルの西側への逃亡。
1954年 パリ ジャズ ズーラ
1955年 ユーゴスラビア 舞踊団公演 ヴィクトルのフランスへの強制送還。
1957年 パリ ヴィクトル 映画音楽への参入 ポーランドの音楽のフランス化。ズーラ
1959年 ヴィクトル、パリからポーランドへ。収監、15年禁固刑。
1964年 釈放、中南米音楽祭 キリスト教会の廃墟。
ポーランド出身のズーラが歌う「二つの心」。
パリの人々の前、ポーランド語で歌われるとき、それはさながら「わらべはみたり、のなかのばら」。
大都会に移して聞けば、そのリアリティは場違いで、生々しすぎる。
フランス語にうつされたそれは、都合よく作られた造花。
ポーランドをはじめ、旧東側諸国の歴史を通覧。断片的な映像や情報のかけらだけで、何もわかってはいなかった。
ショパン 1809?-1849
マリー・キュリー 1867-1934
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ 1860-1941
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ 1818-1883
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 1821-1881
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 1828-1910
アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン 1833-1887
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー1839-1881
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840-1893
ニコライ・リムスキー=コルサコフ 1844-1908
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 1860-1904
ウラジーミル・イリイチ・レーニン 1870-1924
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン 1878–1953
ポーランド連帯 独立自主管理労働組合「連帯」結成 1980
第2次大戦後ポーランド、革命政権が民族音楽・舞踊を支配の道具として手中に収めていく時代。
逃れた先には音楽がグローバルな商品として取引される世界がある。
双方の空疎。
あるいは決してそこに身を置きたくはない現実の世界。
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1944年 チェチェン人のシベリア・カザフスタンへの強制移住
1957年 帰還
1918年 ポーランド独立回復
第2次大戦中、独ソによる分割
1952年 国家主権復活 ソ連支配下にはいる
アンジェイ・ワイダ 1926-2016
「世代」(1954年)
「地下水道」(1956年)
「灰とダイヤモンド」(1958年)
「大理石の男」(1977年)
「鉄の男」(1981年)
パヴェウ・パヴリコフスキ 1957-
1971- 母親と西側に移る。
ストーリー
始まりはポーランド 1949年 民族音楽の収集 音楽・舞踊団の編成 親ソビエト・官僚機構に組み込まれていくものとそこから身をはがそうとするもの。高度に商品経済化されていく西側戦勝国。1950年代を中心に1960年代前半まで。
1951年 ワルシャワ、音楽舞踊団公演。
1952年 東ベルリン、音楽舞踊団公演、音楽監督ヴィクトルの西側への逃亡。
1954年 パリ ジャズ ズーラ
1955年 ユーゴスラビア 舞踊団公演 ヴィクトルのフランスへの強制送還。
1957年 パリ ヴィクトル 映画音楽への参入 ポーランドの音楽のフランス化。ズーラ
1959年 ヴィクトル、パリからポーランドへ。収監、15年禁固刑。
1964年 釈放、中南米音楽祭 キリスト教会の廃墟。
ポーランド出身のズーラが歌う「二つの心」。
パリの人々の前、ポーランド語で歌われるとき、それはさながら「わらべはみたり、のなかのばら」。
大都会に移して聞けば、そのリアリティは場違いで、生々しすぎる。
フランス語にうつされたそれは、都合よく作られた造花。
ポーランドをはじめ、旧東側諸国の歴史を通覧。断片的な映像や情報のかけらだけで、何もわかってはいなかった。
ショパン 1809?-1849
マリー・キュリー 1867-1934
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ 1860-1941
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ 1818-1883
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 1821-1881
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 1828-1910
アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン 1833-1887
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー1839-1881
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 1840-1893
ニコライ・リムスキー=コルサコフ 1844-1908
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 1860-1904
ウラジーミル・イリイチ・レーニン 1870-1924
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン 1878–1953
ポーランド連帯 独立自主管理労働組合「連帯」結成 1980
この記事へのコメント
東時代への郷愁。
ポーランドにも解放後30年を経て、おそらく同じ動きがあろう。
この映画にもその反響が感じられる。