陽水の時代

井上陽水についての記事をまとめた。テーマとなった曲にもとづき配列した。


2007年10月31日

人生が二度あれば:YOSUIの60年 
人生が二度あれば 1972年

音楽 詩

 YOSUI TRIBUTE が出て、3年の月日が経った。UAの歌う「傘がない」は再構成された「父」と幼い娘を描いた映画の中に流れているという。

 われらが陽水はすでに60年目の日々を歩いているはずである。
 「人生が二度あれば・・・」と歌ったとき、そこで歌われた父は65歳、そして母は64歳。
 計算に間違いがなければ、その父母は明治の末の生まれ。それは20世紀の初めでもある。
 その生涯を明治維新の果て、日清・日露の戦後からさらに第二次大戦の敗戦後復興の時期へと重ねてみる。

 一年前、ユーラシア大陸の西の内陸おくふかくに身を沈めて生きた牧師の姿を追いかけていた。18世紀中葉から19世紀の最初の4分の一。それがその牧師の生涯である。とおいオリエントの地は視野には入っていなかったろう。「父の姿」を失うことではるかに巨大な象徴としての父を必要とした時代が、そのあとにやってくる。19世紀から20世紀のいわゆる「帝国主義」「植民地」の時代は、もはや「父祖の邦」を基礎としない、もっと空疎な亡霊が支配した時代であったかも知れぬ。モオツァルトのから元気、ベートーベンの常軌を逸した勇猛心、そして時代下ってマーラーの馬鹿馬鹿しいまでの広大さ。

 「父」は二度目の人生を息子に託したであろう。
 しかし、「息子」はその父の人生を生きなおし引継ぎはしなかった。
 「人生が二度あれば」は託された人生を蹴って生きた優しい息子による訣別の歌でもある。


 20世紀中葉、ユーラシア大陸の西の片隅で戦禍の中をかいくぐって作られた映画「天井桟敷の人々」では、女主人公ガランスが「姓はない、父はいない」と告げる。舞台は19世紀前半、パリ。巨大都市は、素性を失った人々が生きる世界でもあった。


 UAの歌う「傘がない」は再構成された「父」と幼い娘を描いた映画の中に流れている  奥田瑛二監督 長い散歩 2006年12月公開

 2004年11月27日

 UAが歌う井上陽水の「傘がない」 
  傘がない 1972年

 「YOSUI TRIBUTE」という新しいCDが出た。井上陽水の1970年ごろからの歌を様々な世代の歌い手がカヴァーしているのが興味深い。

 「傘がない」という1972年の歌を1972年生まれのUAが歌っている。
 <自殺者が増えていることよりも、国の将来よりも、いま、会いに行くのに傘がない。それが自分にとっては問題だ>。
 他愛もない歌詞を、UAの歌声は、まるで今日にも命を絶たれてしまう少年のように歌っている。

 土砂降りの雨を凌ぐ傘さえも手にできず、ぼくは君に会いに走っていく。今日にもすべてが終わってしまう。それは、もしかしたらこの世の終わりなのかもしれず、あるいは、人にとってかけがえのない何かの終わりなのかもしれない。

 UAがこの曲を聴いたのはカヴァーのオファーがあるほんの少し前だったらしいが、私はむしろ、彼女たちの世代にとって、この30年間、どのようにこの曲が響いていたのかを夢想した。
 そして、陽水と同世代の人々に実際にはどのように響いていたのか、さらには響き続けてきたのかをも。

 かつて、私は井上陽水を現代の中原中也にたとえたことがある。中也は30歳の声を聞くか聞かずで亡くなったが、現代の中也は1970年ごろの絶唱のあと30年を超えてまだ生きつづけている。幾重にも重なる闇の世界を切り開きながら。


2004年12月22日

井上陽水の「青空、ひとりきり」 1980年代を準備したもの 
  青空、ひとりきり 1975年


 音楽 社会

 陽水の1970年代前半までの作品については、比較的評価が安定しているのに対し、1980年代以降の作品と音楽活動については、評価が分かれるようである。

 たしかにわかりやすい「叙情性」という意味では「心もよう」「人生が二度あれば」「傘がない」など、初期の作品に評価が集まるかもしれない。
 しかし、そのような意味での叙情性は、たとえば最近の韓国ポップスにも優れたものが多数見られ、とりわけ陽水の卓越性を示すものとは思えない。

 それらは伝統的な世界で培われてきた関係を下敷きにしている。ただ、彼らは失われつつある世界を懐かしんで歌ったにすぎない。それは「想い出」の世界にすでに存在したものであり、なんら新しい時代を築くものでもない。

 陽水が他の追随を許さず、聳える峰として見えてくるのは、むしろ1980年代からの、取りようによっては遊び半分とも見える作品の数々である。

 陽水の「青空、ひとりきり」はその意味で彼のターニングポイントになった作品と私には映る。

 作品は最近では、彼の Golden Album に収録されている。

 それこそ、「青空の下にいる作者自身を描いた」だけの歌詞を格別新しくも思えない旋律に載せている。
 しかし、彼特有の明るく高い声が突き抜けた青空のイメージと重なり、まるで陽光がハレーションを起こしたような「深い闇」と「空虚」を聞く人に突きつけてくる。


 1970年代後半は彼にとって寡作の時代である。今思えば新しい音楽を求めて模索を続けていた、苦しい時代であったかもしれない。この後、1980年代に入って、彼はもはや地方の人々の中央への動機と情動に支えられた「出郷」の人ではなく、まったく新しい都会の人として、ユニセックスの歌を提供していったと、私には見える。

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 以下のページには、この曲の率直な感想が綴られています。
 14/oct/2005
 http://www.opus9.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/66



 抒情という概念について、再考の必要があり、それにもとづき改稿の必要がある。



2004年12月09日

「君によせる愛はジェラシー」 1980年代の井上陽水 
  ジェラシー 1981年

 人間関係 虚

 1981年末に発表された井上陽水の「ジェラシー」は、不思議な歌である。

 1981年、私は初めて欧州に渡った。短い2回の滞在のいずれも、日本への帰国便の中で、同乗した日本人のサラリーマンらしき人々の視線に当惑した。気のせいか、彼らの眼が「同国人の女ならいうことを聞かせてみせる」と言っているように見えた。日本人の留学生だった男性がパリのアパートでオランダから来ていた女子学生を殺害した事件からいくらもたっていなかった。帰ってくると、女性の友人たちが、松田聖子のぶりっ子ぶりと寺尾聡のよわよわしさを評論していた。上昇気流に乗りつつある日本の経済への逡巡と、性やかわいささえも商品化され象徴化されていく軋みのなかに、人々はいた。

 この歌はどう見ても「男から女への、愛とない交ぜになった嫉妬」を歌っている。それは不思議であり、慣れない感覚であるように見える。どこかで愛は男女の間に、嫉妬は同性同士に生じるものだとの先入見のとりこになっている。
 しかし、注意深く様々な出来事をたどってみれば、あの飛行機便の中で跳ね返さなければならなかった粘っこい視線も、単身欧州便に乗り込み、機中を足早に歩く若い女へのジェラシーであったのだろうし、身近な男女の間の様々な心のもつれや背反にも嫉妬という感情の下敷きをおいてみれば納得がいく。
 そして、遠い昔、同じクラスになった少年から受けた衝撃も、ああ、あれはジェラシーだったのだと読み解くならば、すべては用意した一覧表の中にすっぽりと納まる。

 同一化、一体化の心地よさを引き剥がされ、「自立した個人」としてのありようを求められるところでは、その心もとなさと依存心の残滓がジェラシーという媚薬に姿を変える。あの日々、私は、自分自身を立て直さなければならぬと焦燥に駆られていた。あのまだ幼い日々、そして私は、ルソーの「エミール」にも苛立ち、燃えるように街を歩いていた。
 その少年へ向けた私自身の幼いジェラシーの日々から20年も経たないうちに、陽水は巧妙な距離感をもって女性への愛を歌っていた。今回この歌をカヴァーした一青窈の、ジェラシーさえも懐かしい記憶になってしまったような歌声を聞きながら、この22年の、そして40年の歳月を考えていた。


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追記:以下のページに興味深い関連記事が載せられています。

「ジェラシー」を知り、大人になった?
http://chic.way-nifty.com/jaran/2004/10/post_6.html

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 お詫びと訂正

 「ジェラシー」の発表は1982年ではなく、1981年の終わりのようです。
 そうしますと、このタイトルも・・・・・1981年の井上陽水としなければならなかったわけですが。
 いずれ、何かの機会に改訂させていただくこととし、当面はこのままで失礼いたします。

 訂正いたしました。
とりあえず、訂正を加えました。1980年代の陽水についてはあらためて、取り上げたいと思います。


2005年02月26日

井上陽水 「カナリア」 とジェーン・バーキン 「カナリア」 
 カナリア 1982年

 1980年代の井上陽水の歌、「カナリア」。

 陽水が歌い、そしてジェーン・バーキンがカヴァーしている。

 「物語り」が重ねられ、それを乗せた歌声が、天空へ向けて響いていく。

 「カナリア、カナリア」とリフレインが入る。

 聞き手のまなざしは揺れ、天空をさまよう。

 この歌に身を任せる人は、陽水とともに、小さな部屋の窓を上空から眺め、鳥かごを持って出かける少年の後を追う。
 少し前のアニメヴィデオ「スノーマン」が天空を飛び、人々の暮らしをはるかに望んだように。

 1970年前後、父と母への思いを歌い、小春おばさんをうたい、郷里の人との気持ちの齟齬を歌った「一人称作家」井上陽水は、もうここにはいない。

 「傘がない」をはるか遠くにおしやり、「青空、ひとりきり」をとおりすぎてきた陽水が、いまや、遍在と不在の矛盾を超えた人として、「カナリア」を歌っている。

 そして、ジェーン・バーキンの透明な歌声もまた、時にカナリアとなり、時に天空からそれを見守るまなざしともなって突き抜けた空に響いていく。

 こんな風に書くのは、書き込みすぎだろうか。

 ともあれ、少年がカナリアを連れて外に出たのは、きっと今頃の季節だと、私は思い込んでいる。


2005年02月02日

ジェーン・バーキンの名は知らなかった

 音楽 社会

 何ヶ月も前のことだ。

 立ち寄ったコーヒーショップで、何気なくおいてあった雑誌をめくっていて、井上陽水とジェーン・バーキンの対談の記事を、偶然のように読んだ。

 1960年代のイギリスをはるかに望んだ、少しマニアックな内容が暗闇にちらちら光るイルミネーションのように懐かしく、少しまぶしかった。
 ジェーン・バーキンの名前はあまりよく知らなかった。
 そして、その中で、私はこの未知の女性が、井上陽水の、その時はまだ知らなかった「カナリア」という歌を歌っていることを知った。

 1-2ヶ月のち、いや2-3ヶ月のちだったろうか。車の中で聞く新しいCDが欲しくなった。
 リパッティと高橋悠治の弾くバッハさえあればあとは一生何も要らない、身辺は整理しようなどとうそぶいていたのはほんの少し前なのに。
 立ち寄った店のディスプレイの前を徘徊していて、ふと井上陽水のCDの何枚かに気づいた。
 そうだ、彼の歌は長い間、聞いていない。
 当時のフォークソングブームには何一つ関わりがなく、はるかに遅れた聞き手になったころ、それでもまだLPだったレコードを1-2枚、そして、シングルを1枚購入して持っていた。

 YOSUI TRIBUTE と名づけられたCDにひきつけられたのは、ジェーン・バーキンと陽水の対談という伏線があったせいだろう。
「カナリア」だけでも聞いてみたいと思った。

 かくして私は小さな石に躓くように、また陽水の歌とそれをめぐるきら星の虜になった。


 以来、あの対談の記事を探しているが、どうしてもみつからない。


2005年02月12日

「ジェーン・バーキンの名は知らなかった」について

 日記 音楽 映画

 今日はよい土曜日だった。

 午前中、新しくかかった映画を観、その足で街中の書店へ。FIGARO のバックナンバーを見つけ出して購入。昨年の初夏、井上陽水とジェーン・バーキンの対談の記事を見た号だ。

 夕方はいきつけの茶館へでかけ、ジェーン・バーキンと井上陽水、それにフランスと韓国のポップス音楽の事情についてひとしきり店主と話す。日本にアジアやヨーロッパの音楽が入ってくるときの偏りについてなど。


 件(くだん)の対談記事は、1960年代アントニオーニの『欲望』に彼女が出演した話、ビートルズのメンバーとの思い出、当時のロンドンを中心に、二人であればこその話が展開されていく。
 『欲望』が上映されたころ、高校生だった私は、おそらくリバイバルで大学生になってから観たはず。しかし、ハッキリした記憶がない。もう少し余計に不良少女でありたかった。


 イギリス時代の彼女を若い店主は知らず、しかし、フランスにわたってからのジェーン・バーキンと周囲の音楽家たちについては、めっぽう詳しく、私はあっけにとられて、よく知らない演奏家や作曲家の話を聞いた。
 そのうちに新しい客が来て、少しあぶなめの音楽の話はおしまいになった。


2007年03月02日

遠ざかる風景: 井上陽水( Yosui )の「少年時代」 
 少年時代 1990年

 こども 詩

 1999年にリリースされた井上陽水ゴールデン・ベスト・アルバム最初の曲は「少年時代」である。
 この曲がつくられたのはおそらく1990年代の初め。陽水、初老(42歳)のころ。遠景に退いた少年時代が激情や諧謔をそぎ落とし美しく歌われる。もとより当時、同時代の音楽に縁のなかった身に、記憶が残るわけもない。しかし聞けば、この曲は義務教育の音楽教科書にもとりあげられているという。
 アルバムが出された1999年、陽水はすでに50代。1960年代北九州で音楽活動を開始してから40年有余が経過している。2枚組みの曲集には1990年代、1980年代、1970年代、それぞれの時期を彩る歌の数々が入り組んで並べられている。
 1980年代、井上陽水30代の曲の数々はおもいきり突っ張った、毒の強いものが多い。まさか「ベッドの中で魚になったあと」(リバーサイドホテル、1980年代半ば)などという歌詞を、10代初めの子どものための教科書に載せるわけにはいかないであろう。愛と性は直接に、しかし超現実の出来事として語られる。
 1990年代にはいると、80年代には影に潜んでいた平易で緩やかな旋律のものが目立つようになる。
 「少年時代」「結詞」「5月の別れ」「長い坂の絵のフレーム」「積み荷のない船」。
 そして、「Tokyo」「タイランドファンタジア」「Teenager」さえも。
 詩的言語連鎖はひたすら濾過されている。
 その中で、「青春」「少年時代」は反復され、遠ざかっていく。

 20代の日々をしか生きなかった中原中也はその詩の中で幼児期を反復したが、陽水では少年時代が一人称、二人称、三人称と重ねられていく。Tokyoで生まれ育つ第二世代と、自らの少年時代をともに遠景に置きながら。

 多分1990年代の初めであったろう。学生時代をともに過ごした友人の家に立ち寄り、中学生になったその子どもの姿に胸を打たれたのは。若き日の迷いはまだそこにあり、しかし、再びは繰り返し得ぬものとなっていた。

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 井上陽水 Inoue Positive Water
 偶然、一連の陽水関連の記事が英訳されているのを発見。
 Positeve water ???
 かようなわけで、括弧がきを入れた。


2005年04月21日

YOSUI TRIBUTE を聴いて6ヶ月

 人間関係 音楽

 高橋悠治とリパッティの弾くバッハさえあればよいと思っていた季節もあった。しかし、今は新しい音楽も聴いて、時代の風を感じていたい。
 井上陽水の曲を14人の歌い手(またはグループ)がカバーしたCDが発売されてすでに半年近くたつ。いくつかの幸福な偶然が重なって、それを知って手にすることができた。気分の赴くまま書いたいくつかの文章をブログにアップした。それらにいまだにアクセスがある。

 陽水とはほとんど同時代を生きてきた。その曲にさまざまな世代の歌い手が声を重ねている。過ぎてきた時代と、新しい時代。陽水やわれわれと同世代のひとびとと、そして、ずっと若い人々。
 UAが歌う「傘がない」を聴きながら、1970年代初めに、この曲がどのように流れ、私たちにどのように響いていたのか、そして、当時まだ10代だったたとえば1960年代初めのうまれの子どもたちにはどのように響いていたのかと思った。UAのひたむきで、こわれそうな歌声はいとおしく胸にひびく。
 陽水を同級生たちはかなり早い時期から追いかけてきたらしいが、私が知ったのは1970年代も半ばになってからだった。
 自分からフォーク・ソングやポップスを聴く習慣のない私は、ほとんどの曲はそれを好んで聴いていた身近な人々の記憶と重なる。
 今回は身近にいる若い人々が新しい歌い手について、教えてくれた。

 ときどき立ち寄る東明茶館の店主にも、車に乗せる伴侶にも、聞いてもらった。そして、伴侶がフランスの友人に貸したCDは帰ってこない。どうやらあちこちで愛好されているらしい。


2015年08月30日

陽水covers ... 

 音楽

 井上陽水が歌うのを久しぶりに聞いた。少し前の、ほかの人の手になる歌。
 松任谷由実「リフレインが叫んでる」、永六輔・中村八大「黄昏のビギン」、吉田拓郎「リンゴ」、フォーク・クルセダーズ「あの素晴らしい愛をもう一度」、来生えつこ・来生たかお「シルエット・ロマンス」。
 しわがれた、天国も地獄もともに知り尽くしてくれているような声で。
 それらのすべてが幻のように流れていく。
 荒井・松任谷由美、吉田拓郎、そしてフォークセの加藤和彦、同時代を生き、或はすでに身罷った、作り手のそれぞれについて、何も語らないのだが。

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