こころの交差点:木陰の補習教室

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zoom RSS すべてが許されると思うとき

<<   作成日時 : 2016/06/14 19:13   >>

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 だれかが自分自身より恵まれた条件を与えられていると思うとき、あるいは自分自身が「不当に」恵まれない状況に置かれていると思うとき、様々な不正さえもその自分には許された権利だと思えてしまうのだろうか。
 それが都知事であれ、少ない椅子を奪い合う雇われ職人であれ。
 舞台は戦況悪化の小国、都心の商社本店。戦況下、会社の仕事は行き詰る。いっぽう、生活に逼迫した役員の親族が女子社員の少ない椅子を求める。椅子を明け渡すのは末席に座る二人のうち一人。ある事件をきっかけにこの決定はあっけなく下される。勤務後に遭遇した小さな騒動とそれを利用した一人の小さな嘘によって。どのみちどちらかが解雇のうきめにあう。そして、そのことで、わたくしのほうがより困った事態に追い込まれる。私のほうがあなたより多くの弟や妹を抱えている。・・・
 それだけではあるまい。椅子にしがみつくためには、競争相手を危ない場所に誘い込み、汚点をつけるように画策することにさえ、手を染めたかもしれぬ。悪いのは私ではない。もっと大きな不正がある。
 恵まれない立場に置かれたと思い続けたひとが必死に這い上がったとする。しかし爪をはがす思いでのぼりつめていけば、そこにはそれでは達成できぬ壁が立ちはだかる。幼少期からのゆとりと文化的な資源。家族の何気ない会話、親族のあれこれと彼らの趣味。それらを修復するためにすべてを注ぎこむことは許されるはずだと。
 その姿のあまりのいじましさ、小ささに、人々は言葉を失うのではないか。これはわれわれがその姿にどのようにいらだちをつのらせたとしても敗戦に続く70年近くを生き延びてきた我々の自画像ではないだろうか。

 ビール券、ファストフード店のポイント券、安価な漫画本。私的な自宅での接待のための日曜大工のためのささやかな指南書。些細な不正の数々をあげつらう大合唱会を見聞するにつけても、これまでに接した、遭遇してのちに驚くような小さな不正と裏切りの数々を思い出すのである。そのたびに、まさかと思うわが身のうかつさとめでたさが、あらゆる幸運と厚遇を当たり前のものとしてさしたる感謝の念もなく受け取ってきたわが身の無神経さとも重なって見えてくるのである。
 

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