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zoom RSS 丸山真男と李良枝・・・

<<   作成日時 : 2007/10/11 03:22   >>

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秋には秋の日々のあわただしさがあり、そのただ中で丸山真男についての小さな本と、李良枝の小説集を読んだ。

22/3/1914-15/8/1996  丸山真男の生涯は、個人的には父親の生きた時代と殆ど重なる。

15/3/1955-22/5/1992 そして李良枝は遅く生まれ夭逝した妹のようでもある。

そんな風に、自分自身の身体で、ひとりひとりの生を計測する。


李良枝 イ・ヤンジの作品のいくつかを収めた小さな本には、巻末に彼女の年譜がついている。1989年3月までは本人により、その後は出版社の編集部による。
1964 9歳 帰化、
1967 12歳 中学生、太宰治、ドストエフスキー 
1970 15歳 高校生 日舞、筝 小原流礼法 そして 永井荷風
1975 20歳 伽耶琴と韓国舞踊
1976 21歳 武田泰淳 河上肇 クロポトキン
1979 24歳 伽耶琴 
1980 25歳 韓国訪問 伽耶琴 パンソリ 巫俗舞踊 
1982 27歳 ソウル大学(予備課程から国語国文科へ)
1988 33歳 同卒業 梨花女子大学舞踊学科大学院(研究生から翌年修士課程入学)
1991 36歳 同単位取得

丸山真男
1933 18? 特高警察の取調べを受ける
1944 30歳 召集
1945 31歳 再召集 広島で被爆
1950 36歳 東京大学教授
1971 57歳 同辞職
1989 75歳 Studies in the Intellectual History of Tokugawa Japan,
     trans. by Mikiso Hane, (University of Tokyo Press)


二つの時の流れをならべてみたことに取り立てた意味はない。
半島と列島との間に投げ出された裸形の生。
稚さと困難とを生き抜くことと、それを見ることとは違う。その当然のことを改めて想う。
困難が可能性の扉をひらくこともあり、護られていることが閉じ込め、限定し 隘路に追い込むこともある。

鶴見俊輔の『回想の人々』には金芝河の項がある。それを昨日、仕事で日帰りの遠出をする前にひょいと見つけてリュックサックに慌てて詰め込んだ。

1972年、高校生になったばかりのイ・ヤンジが京都に逃れて旅館で働いていた頃、キム・ジハは韓国で逮捕監禁され、鶴見俊輔は真継伸彦とともに釈放要請の署名を携えて韓国にわたった。
鶴見俊輔は1941年と1972年の日本と半島とを串刺しにして、切迫した状況を伝える。
1941年はキム・ジハの生まれた年でもある。
1980年イ・ヤンジが初めて韓国を訪れたとき、そこは光州事件のさなかだった。
キム・ジハは獄中生活、死刑宣告、政権交替後の釈放、その後の混迷という長い長い地下道を歩いていた。「ようやく、立ち上がることができたとき、政府抗議への弾圧が光州でおこり、金芝河は出かけたが、そのときのデモ隊とのつながりをつくることができず、孤立した・・・」
この年、イ・ヤンジ25歳。半島の音楽や、語り、そして、舞踊に向かっていった。そしてキム・ジハは39歳。やはり音楽と、神話と伝承、そして気功。

鶴見俊輔(1922−)は金芝河が1972年から30年を経て京都の鶴見俊輔を訪ねたことを記す。金芝河の1972年以来の歩みは、その折、鶴見俊輔に語ったものとして、伝えられる。


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